足尾銅山を訪ねる2002年11月5~6の二日間、栃木県足尾町にいってきました。 今回は国土交通省関東運輸局の『産業遺産を活用した観光振興方策策定調査』のためのツアーで、私は行って見てあ~だこ~だ好き勝手に意見を言うためについていったのでした。 足尾、といえば、『銅山』。そうですね、それしか思い浮かびませんね。産業遺産というのはまさしく、その銅山の歴史を、観光資源として生かすことができるのか否か?という ところです。 足尾銅山は1973年(昭和48年)に閉山しましたが、銅山としての歴史は大変長く、1610年に農民によって発見され、江戸幕府のための鉱山として栄えました。しかし、やがて銅がとれなくなって長く休眠したのです。それが1877年(明治10年)、古河市兵衛が買い取って掘ったところ、大鉱脈にぶちあたり、またしても栄華を極めました。日本の銅の40%を生産するにまでなったのです。足尾もにぎわい、人口は38000人ほどいたそうです。 しかし、足尾は「公害」という問題も出しています。 ひとつには、銅山からでた鉱毒が渡良瀬川に流れ込んで、下流の田畑をだめにしてしまった足尾鉱毒事件。田中正造という議員が、天皇にまで直訴して農民とともに戦ったという史実があります。 もうひとつが「煙害」。足尾の上流のほうに精錬所がありますが、ここから出る煙(亜硫酸ガス)がたちこめ、住民を苦しめただけではなく、山の草木が一本もなくなってしまうはげ山をつくってしまったんです。このはげた山は、人間が手を加えなければ決して元に戻らない「死の山」となっているのです。 足尾は、そのような、繁栄と衰退の両面性を持つ町です。 さて、そこで私たちが見てきたもの。そして足尾の可能性は? ということについては、眠たくなってきたのでまた明日にでも。 『産業遺産』という考え方と、体験学習、環境学習、そういったものが、このフィールドでは考えられそうだ、ということですね |